かみなし子こんにちは

取り留めなくおんなひとりの生活をつらつらと

かみなし子こんにちは

他人からみた「かみなし子」が恥ずかしくなってTwitterの発言をやめてみた

かみなし子 (@)です。

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Twitterが昨日6月9日で1歳になったよ。

シックスn(続きはクリック!)(続かない)

 目次

Twitterセルフ自粛月間

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月別ツイート数。4月に比べたら減ったもんである

ちょっと前に、あるできごとをきっかけに、Twitterでの発言とネット上でのキャラに迷いが生まれたことがあった。そして、Twitterで日常やそれに付随する感情などを投稿するのをやめてみることにした。最初は「いいね」すら控えていたがすぐに再開したし、ブログ投稿はもちろん、リプライやDMには返信していたし、Twitterでのお絵描きお題なんてのも参加して、イラストを投稿することはあったけれど。

kaminashiko.hatenadiary.jp

 

恥を晒してるだけなんじゃないか

自分の中では、リアルの「わたし」とインターネットに作った「かみなし子」を切り分けていることに成功しているつもりでいた。実体験を告白する雑記だから、無理はあるけれども、それでもマインドの面では、その場で話す「わたし」と、テキストを生み出す「かみなし子」は違うと思ってたんよ。むしろなりたいと思っていたキャラとして振舞うことに達成感すら覚えていたんだ。リアルで伏せていた部分を奔放に言葉遊びをするのは快感であった。どんな部分かって?下ネタとかだよ

 

それでも、オフ会でもSNSでのやりとりでも、どうやらめんどうくさい、どうしようもない、うざったい「わたし」がやはり見えていたみたいだ。テキストから駄々洩れだった。リアルの友人から、「『わたし(の名前)』はほんとめんどうだよね~~」とよく言われる。そういった面を受け入れてくれた友人たちなので、少ないが今でもときたま盃を交わしている。対人に関しては、ほんと難しいね。どう伝えたらいいのか、どうやったら伝わるのか、どうしたら迷惑にならないのか、そんな恐怖を持ちながらビクビクと距離感をとっていたのもバレていた。

 

余談だが、そういうのは本当に好きな人じゃなきゃやらないので、どうでもいい人にはそんな素振り見せたくもないんですけどね。なので仲良くなっていくと自己開示しすぎて重くなる、共依存の典型です(先日ブロガー友人の方々からこの重いエピソードを話した瞬間なぜか賞賛をいただいたが。「その面倒くささをブログに書け!」「2行くらいでメンヘラぽいこと書けばアクセス稼げるから!」ってそういうのしたくねーんだよ!)。

 

でも放出したいからブログに集中

このマスターベーションとも呼べる原始的な欲望は、代わりにブログにぶつけた。それが5月の怒涛の更新劇である(わたしには珍しかった、25記事/月)。すぐつぶやけない、ということはもどかしさを覚えたが、あまりに公共に発信するべきじゃないというような内容も含めて、自分1人しかいないLINEグループを作成しそこに投げ込んでいた(暗い)。おかげでそれは良いネタ帳にもなっていて、ブログにどうやって形にしようと考えて文章にするトレーニングができたと思う。

 

いざやめてみてどうだったか

ブログがチョ〜〜〜〜〜〜捗る~~~~~~~~~

Twitterはリアルタイム性が大きいから、リプライやDMは返していたんだけれど(かまってちゃんだし)、早く返さなきゃ!って焦りが大きかった。会話が盛り上がるからだけど、なかなか作業にどっぷりつかれない。ブックマークは、自分のブログにもブックマークにも残るから、おいおい返信したりしてるけど、それほど焦らせるような要素はない(とはいえ、最近記事の更新といただくコメントがありがたいことに自己最高記録なので、ドン亀なのです。でも返信はすごくシタイのよ)。

 

このままやめてもいいんじゃないの?

こんな考えも浮かんだ。もともと、ブロガーだもの(かみなしを)。本業やってれば間違いないじゃない。このままブログの更新だけ流すのも悪くないかな?という考えも浮かんだ。

 

でも、ふと自分のタイムライン振り返って見てみた。

 

つ、、、、

 

つまんね〜〜〜〜〜〜!!

 

ブログ投稿、読者登録、それのみ。こう、魂の、ソウルのシャウト?が聴こえてこない。つまんね~~~のよ!自分だったら絶対フォローしないタイプのアカウントよ!それに自分が自らなってるってどういうこと?もっと、やっぱり、赤裸々でいいんじゃないの?そうじゃないとやっぱりかみなし子のコンテンツ力としては3点くらいだなと思った。まぁ「書く」と「見られる」、どっちに比重を置くかって話なんだが。。

 

まぁ、果たしてただの開き直りが前向きな解決なのかはあやしいところだが。結局ちゃんとすることを諦めたってだけじゃないの?いや。「あきらめる」というのは仏教用語でもあるんだぜ。

今、日本語で「諦める」といえば、自分の願いごとが叶わずそれへの思いを断ちきる、という意味で使われるのが一般だ。しかし、「諦観(たい(てい)かん)」、「諦聴(たい(てい)ちょう)」といった熟語の「つまびらかにみる、聞く」にみられるように、「つまびらかにする」「明らかにする」が、本来の意味である。そして、漢語の「諦」は、梵語のsatya(サトヤ)への訳語であって、真理、道理を意味する。

諦める | 生活の中の仏教用語 | 読むページ | 大谷大学

あ、これ、これでいいじゃん。


こじらせててひねくれてて、めんどうくさい「かみなし子」。それに不満ばかり言ってるんじゃなくて、「受け入れて」、よしとする。
「かみなし子」を書いている「わたし」という1人の女を、「明らかにする」ことで落ち着くじゃない。それだけで生きていきやすくなるんじゃないか。思わぬところでリアルの生き方にもつながる発見になったよ。


それでいて、こんなわたしを、まるっと「面白い」と思ってもらえたら、「好き」って思ってもらえたら、嬉しいことはないね。
もうリアルの自分は含めてわたしを愛してください(最後に投げやり)

 

どんなめんどくさい黒い感情でも一滴残らず絞り出してやんよ。いっそ内臓まで見せてやんよ~~~~!!!(ちょっとT.M.RevolutionのライブCD聴きすぎてテンションおかしくなってる)とはいえ地球の、文明の中で、社会の中で生きていくので、あまり人様に迷惑かけないでいきたいけれども。

 

まとまりがなくなったので、これから

6月になった。実はTwitter1周年ということで、ツイートも再開した。言葉には迷ったけど、たくさん考えて、無駄な考えをそぎ落として、この一言になった。


ご縁に恵まれて、オフ会も参加させてもらってるし、ネット上のコミュニケーションも楽しませてもらっている。

 

Twitterではこれからも、恥を晒して生きていこうと思う。

それとみなさんとの適度な絡みも♡いや、濃厚な絡みシーンを♡♡

 

これからも恥の多いかみなし子をよろちくび♡
(チクビームのポーズで)

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写真はモデルプレスの記事より